対称性の揺らぎについて

それにしても、ニュートン力学とはよく出来たもので、
何処が好きなのかというと、実際に細かく分析したらそんな美しい形ではないのに、
集合的に(マクロに)見て、美しい形になっている、ように見える、ということがなんだかものすごく暖かみがあって好きだ。
対称性は揺らいでこそ美しい(ふらふらした色彩感覚につられる所以でもあります)といつも思っています。


……


人間関係にも力学が働いているのですね、と思った。
人間、生まれついて空中に放り出されて、重力に従って落っこちようとするのを、
親や兄弟、周りの人々の力で、えっちらおっちら、あっちに引かれてこっちに引かれて、
その合力でその人が向かっている方向が決まって行く。
彼らは、仕草で、言葉で、お互いに力を及ぼしながら進んでいて、
例えば、親が子を育てるときには、子がどのような向きに向かって欲しいか、それを考えて子を引っぱっていく。


その際、反面教師はしないようにするべきだと思う。少なくとも自覚的に、かつ相手にそれを伝えないといけない。
表を見せられたら、どうしてもその裏を想起するもので、
「表側」を子どもには見て欲しいのに、子どもはその「裏」を見透いてしまう。
それも、様々な「表側」を見せられても、その「裏側」が一つに統一されていたりしたら、なおタチが悪く、
「裏側」の影が「表側」より余計濃く見えてしまう。子どもはそちら側を見てしまう。
それにあたって、親がその「裏側」について何も言及しなかったら、子どもはその裏側に吸い込まれてしまう。
親としては、「表側」に育ってもらいたかったのに、正反対の「裏側」に育ってしまう。よく見える構図のような気がしてならない。
「表側」だと思い込んでいた言葉や仕草が、本当は「裏側」の力なのかもしれない、
ということを見抜くことができる想像力があればよいのだろうか。あるいは、その「先」を、見据える力が必要なのだろうか。
嘘をついてはいけないのはこういうこともあるのだろうなあとか。思う。


いずれはもちろん、その子ども自身が自分の進む向きを変えるだけの力を持つわけだけど、
そのときには意識的であれ無意識的であれ周りから与えられた力によって、進む向きが決められ、慣性の法則が働いていて、
それまでの自分の動き・向きを変えるには、結構な力が必要になってしまう。
努力という力で、自分の思う向きを向くことはできるのだけれど、それは本当に大変なことだ。
やはり、その先に見えるもの、どのように曲げて行けるだろうか、見据える力が必要なのだろうか。
それは、進みたい向き、進みたい目標を持つ、ことが、意志の強さというものが、それにあたるのだろうか。くそったれ、マザーファッカーが

今日の一曲

花びら / THE BACK HORN



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