カラン

カランってなんや?伽藍とちゃうんか?

伽藍堂というのは、大きい木のウロのことで、

無限遠に広くて高い

湿度がひっそりと音を吸い込んで、

命を盗む気配がする

だが、ほんとうは、

多くの生物が潜んでいる

活き活きとした野のあおい光は、

視覚に頼って生きる我々の安全の証だから、

俺の命と、彼らの命は、本質的に相容れない

 

静けさが滴り落ちるように被さってくる

この時空上に、俺はただの一人

与えられた肉体だけを抱いて

立ち向かえというのか

人の姿を借りて現れた

命の化身を象った黄金の

気配を察してしまえば

あとは表象を持ち去られる

 

そこに潜む花弁に少しずつ齧られる

そのことにも気づかないまま

 

押さえるカランも、ひねるカランも

吐き出すものは変わらない

肌を舐めるように駆ける

ひとりごとをつぶやいてる君と僕だな

 

矢車菊(3)

矢の車ってどんなかんじだ。

語呂の良さと、連想させる絵が気に入ってて、ついつい書いてしまうけれど。

矢という文字から、速度を伴って関連された車とは、現代の燃料による大きな移動手段より、むしろ機織りとか、かつて脱穀に使われた木製の器械みたいなものを思わせる。

だから、いつも矢車菊と言葉にしながら思い出してるのは、昔よく散歩した畑の横に咲く彼岸花の赤い線がちな花ばっかりなのだ。

青は空の広がりより土の現在だし。

燃える日々そのままに、あおい草花を、新緑というならば、石で固めた地面を歩くならば。

スニーカーの足跡も残らないんだな。

ひもを結びなおすようにした。最近。